Dr. Paul Rusch | ポール・ラッシュ博士


(公財)キープ協会 ポール・ラッシュ記念館所蔵

(公財)キープ協会 ポール・ラッシュ記念館所蔵


フットボールの父 ポール・ラッシュ

 

 かつて、アメリカ人にしてみれば小柄で、好奇心旺盛の男がいた。彼は、自分よりもまず相手を優先する心を持ち、失敗を恐れず新たな目標にチャレンジした。一度掲げた夢は諦めない。それがポール・ラッシュだ。

 ポール・ラッシュと日本との出会いは全くの偶然からだった。

 

「日本へ行ってもらえないだろうか?」

 

 1923年9月1日午前11時58分、関東地方に突然の大地震が起こり、日本は絶望的な現実を目の当たりとしていた。当時、自由と冒険にあこがれていたポールは、YMCA(キリスト教青年会)の復興を救援してはどうか、という知人の勧めから、婚約者をおいて日本へ向かう。

 任務が完了し、帰国を決めていたポールは、「立教大学の教授として残ってほしい」と言われる。「1年だけ」という決断が彼の人生を大きく変えた。

 はじめは、日本での布教に対して消極的だったが、自分に信頼を寄せる教え子たちの熱心な姿勢に、彼らの支えになろうと真剣に思うようになった。ポールのリーダーシップは、天性の才能であった。職員寮として立教大学に建てられた五番館には、ポールの人気ぶりから、たちまち、学生のたまり場となった。大学教授だけでなく、地域開発にも力を入れ始めた。不可能に思えることを提案するが、必ずポールについてくるものはいた。そして、それらを見事に達成してしまうのがポール・ラッシュだった。

 「ポールさんはね、短気。それでいて、みんながプイッとすると、慌ててご機嫌をとる人だったよ。50年も日本にいるのに、日本語が全然話せなくて・・・ それから人のことをとにかく心配する人だったよ。誰かが泣くとすぐにつられて泣いてしまう、涙もろい人だったよ。」『RUSHERS』のチームチャプレンであり、ポールに24年間仕えた武藤六治さんは彼のことを思い出すたびに足を止め、懐かしげに振り返る。

 

「私は日米間が最悪の場合に立ち至っても引き揚げません」

 

 時代が移り変わり、歴史に深く残る太平洋戦争が開戦しようとしていた中で、帰国を勧告されるも、日本残留を主張した。第二の母国として日本を愛していた。だからこそ、日米開戦を信じることができなかった。しかし、泣く泣く帰国。戦時中は、聖壇の前にひざまずいて、日本の仲間たちの無事を、ひたすら祈り続けたそうだ。戦後、念願の日本帰還を果たしたポールが目にしたものは、戦争によって変わり果てた日本だった。胸を刺されたように辛いことだったに違いない。決して日本を見捨てることができなったポールは、復興のために動き出した。

 その最初の挑戦が、山梨県の清里に「聖アンデレ教会」を建てることだった。コミュニティーの中心となる聖アンデレ教会は、戦後の日本にとって明日の希望のための祈りをささげる神聖な場所となった。さらにポールは、スポーツによって日米関係を少しでもよくすることを試みた。そこで戦前の1934年に日本に紹介されたアメリカンフットボールを復興させる。スポーツの復活を通じて、日本の青少年たちに、戦争によって崩れてしまった日本を、新たに立て直すことへの希望を伝えたかったのだ。

 

ところで、なぜ、“アメリカンフットボール”なのか。

 

 戦後、民主主義国家の建設を先頭においた日本復興作業に対し、ポールは個人の権利、義務のマナーを養う手段としてアメリカンフットボールを普及させたのだ。アメリカンフットボールは究極のスポーツと呼ばれ、強いアメリカを象徴。「フットボールは良きアメリカ人を作り上げる」ーアメリカ人がこのスポーツに捧げた賛辞である。日本を愛するからこそ、ポールはアメリカで良きものとされているスポーツを導入したかった。それは、戦後の世界に“相互の理解”と“平和”の願いが込められているのだろう。

 そうして誕生したのが、立教大学体育会アメリカンフットボール部(St. Paul's Rushers)だ。そう、我らが『RUSHERS』には、立教大学教授であったポール・ラッシュ(Paul Rusch)と、前進するRushの2つの意味が込められたチーム名だったのだ。

 現在、『RUSHERS』は、清泉寮(ポールが山梨県の清里に起こした実験農場、病院、教会などの総称)で、毎年合宿を行っている。合宿中に、清里聖アンデレ教会にて「ユニフォーム推戴式」を行い、選手たちはユニフォームを手にする。その時選手たちは、どのような気持ちなのだろう。『RUSHERS』が清里に集うことは、大変意義があることだ。『RUSHERS』が自分が眠る場に訪れ、アメリカンフットボールをすることは、ポールにとっても嬉しいことに違いない。

 最後の10年間は心臓病でペースメーカーを胸に埋め込んでいた。ポールは入院先の聖路加病院で静かに永い眠りにつく。独身を通し、財産は身の回りの品だけで、すべてを清里のため、日本のために捧げていた。

 

【Do your best, and it must be first class!!】

 

 「何をするにしてもベストを尽くし、一流のものにならなきゃいけない。」ポールが残した言葉には、「二流なら誰のお手本にもならない。可能性を信じて挑戦するんだ。」と、若者に勇気を与える力がある。無論、ポール・ラッシュには、“フットボールの父”の他に“清里の父”というニックネームがある。息づくポールの精神は、清里の人間やアメフトをする人間が知っているこの言葉とともに、私たちに希望の光を照らしている。清里の人々、アメフト関係者は言う、「ポールは日本にアメリカンフットボールだけでなく、大切な精神を残してくれた。」と。

 アメフトルーツ校だけに、期待度・注目度が高い。しかし、彼らだからこそ出来ること、しなければならないことがある。『RUSHERS』には、ポールのように周りから愛される、熱い心を持ったメンバーがそろっている。そして彼らは、決して感謝の気持ちを忘れない。それは、ポールの精神を受け継いでいるからだ。

 誰よりも日本を愛し、日本のためなら自分を犠牲にしてまで、決して諦めることはなかったポール・ラッシュ。その心情は“愛”としか言いようがない。

 アメフトの普及、発展のために。チーム、そして、応援し支えてくれるファンのために。ポール・ラッシュ(立教)が誇る『RUSHERS』は、今日も前進し続ける。あの戦後の、ポールのように。

 

(2010年9月5日:「立教スポーツ」編集部 大瀬 楓)